2023
07.19

徒然なるままに、マン島TTレース

モトGP取材紀行

2023年6月6日、初めてマン島の地を踏んだ。

2023年、わたしはイギリスをベースにMotoGPのヨーロッパ開催グランプリを取材していて、マン島TTレース開催期間(5月29日~6月10日)はイギリスに滞在中だった。
行かない理由があろうか、いや、ない。
タイミングというのは流しそうめんみたいなもので、箸でつかみそこなったそうめんは、もう二度と胃に収められない……と思っている。

現在も行われている中では世界最古のレースであり、公道レースであるマン島TTレースについては、いろいろな意見を聞いていたし、聞かされた。
けれどわたしは、自分の目で見たかった。そして、考えたかった。
マン島TTレースとは何か、ということを。

果たして、6月6日の朝9時半すぎ、マン島のロナルズウェイ空港に降り立った。ロンドンのガトウィック空港から1時間ちょっとのフライトだった。
「冬装備で来てくださいねー」
と、先輩ジャーナリストの小林ゆきさんに言われていたわたしは、空港の外に出て納得した。
道すがら調べてみると、マン島の中心都市ダグラスは北海道の稚内、日本最北端の地、宗谷岬よりも北に位置している、ということだった。
おまけに空はびっしりと分厚い雲が埋めている。
寒いわけだ、こりゃ。
ヒートテックに長袖シャツ、パーカーとライトダウン、それから冬用のコートを着込んでバスに乗った。目指すはマン島の中心都市、ダグラスである。

ロナルズウェイ空港でマン島のシンボルが出迎えてくれた

今回のマン島TTレース観戦では、バイクジャーナリストでありマン島研究者で、今年もマン島TTレースを取材中だった小林ゆきさんにアテンドしてもらった。
これは忖度なしの感想なのだけど、ゆきさんのマン島、そしてマン島TTに関する知識量はものすごい。ハンパない。とんでもない。脳内にマン島TT辞書がセットされている? というくらい。
一つ質問すれば大量に答えていただき、しかも歴史的背景まで説明してもらった。
そんなわけで3日間、わたしはゆきさんの愛車にタンデムして、3日間という短い日数でマン島のポイントを解説付きで回ることができたのだった。そう、完全なる人まかせである!

Bray Hill
ダグラスに着くと、ゆきさんの愛車にタンデムして、まずはBray Hillに向かった。
ゆきさん曰く、ここは1911年ごろのスタート地点だという。
道に向かって右から下りが続き、下り切ったポイントはゆるやかな右コーナー、そこから上っていく。最もインにつくクリッピングポイントでは、アンダーカウルを擦るほどサスが沈む、ハードなコーナーだそうだ(ゆきさん談)。
歴史的遺産だという石垣に、観客が何気なく腰かけている。
空は相変わらずのどんより曇り空で、ぱらぱらと雨まで降りだした。
ああ、雨かあ。
昨日まで晴れだったと聞いていたのになあ。
スピーカーからひっきりなしに流れているラジオは、スケジュールのディレイを伝えている。
でも、スケジュールディレイだからといって、誰も文句を言っている様子はなかった。
まるで気にする風もなく、楽しそうに仲間とわいわい話している。
バイクのライディングギアを身に着けた人が多いのは気のせいじゃないだろう。周辺の道路にはたくさんのバイクが停まっていたから。
根気よく待っていると、右手からエキゾースト・ノートが聞こえてきた。

マン島で見た最初の走行について感じたことを、どう表現したらいいのか。
仮にもMotoGPを取材してまわっているし、ハイスピードには慣れていると思っていた。
それがどうだろう。目の前の光景は、知らないレースの世界だった。
誰かが住んでいる家が立ち並ぶなか、誰もが通る公道を、バイクたちはものすごいスピードで駆け抜けていく。彼らが駆け抜けた瞬間に空気が震えたのがわかった。それを感じられるほど、ほんのすぐ近くで観戦しているのである。
エキゾースト・ノートが、まるで耳に爆弾を放り込んだように圧縮した空気で埋め尽くした。
脳がしびれる。処理しきれない大きな何かに、じわりと涙が浮かぶ。
目の前を通過するバイクはもはや、残像でしかなかった。
ようやく彼の後ろ姿をとらえると、ライダーは右に腰をずらしたままイン側のクリッピング・ポイントから、目視できるほど激しくバイクを弾ませながら立ち上がっていく。
「これが公道レースということなのだ」
おそらく、フィジカルはすぐに何かを知ったようだった。でも、脳みそはしばらくもごもごと言葉を探し回っていて、ようやくといった風に、理解があとから追いついてきた。

Bray Hillで感じた走行の衝撃は忘れられない

Creg ny Baa
ゆきさんが最初にBray Hillに案内してくれたのは、もしかしたらそういう「初見の人の反応」を計算してのことだったのかもしれないなあ。今にして思えば、そんな気もする。
そしてわたしはしっかりと、その思惑にはまった。要は、好き、嫌いという感情論を抜きにした「マン島TTレースの奥深さ」に引き込まれつつあったわけだ。

2日目には、Creg ny Baaを訪れた。
Creg ny Baaはいわゆるマウンテンエリアで、そこから見える景色はとてつもなく美しい。
ラッキーなことに晴れていたので、Creg ny Baaより少し上ったところからは、透けるような青い空の下に広がる緑と、遠くに海が見えた。
緑の間を貫く灰色のアスファルト。そこを、ライダーたちがものすごいスピードで駆け下りていく。
目の前を去ったライダーの背中が、海に向かって疾走しているように見えた。
とても美しい光景だった。

坂を下った先がCreg ny baa。ライダーがこの風景を駆け抜ける姿が美しく、見ていて全く飽きなかった

それにしても、マン島TTに来るお客さんは観戦が上手である。
1周約60kmもあるから、移動しようと思えば時間がかかる。おまけに映像を流すスクリーンもない。
じゃあどうやって展開を把握しているのかと言えば、専用アプリでライブ映像が配信されているのでそれを見ていたり、ラジオを大音量で流して聞いていたりする。わたしもそのラジオの恩恵にあやかったり、アプリやSNSで情報を集めながら観戦していた。
きっと、こういうレース展開って彼らの楽しみの一つにすぎないのかもなあ。
だって、パートナーや家族、友人などと一緒に来て、ビールを飲んで、アイスを食べて、その場にいるまるごとを楽しんでいる感じだったから。
Creg ny baaに停まっているバイクのナンバーはいろいろな国のもので、マン島TTレースのために、バイクとともに海を渡ってきたライダーがたくさんいることを教えてくれた。だから、観戦のお客さんの間にも、いろいろな言語が飛び交っていた。

ちなみにマン島にはその昔、マン島語(Manx language)という言語があったそうな。
マン島語は1974年に最後のネイティブスピーカーが亡くなられたけれど、現在では小学校で学ばれ、未来へ引き継がれる努力がされているんだそう。
マン島語のネイティブスピーカーの本物の音声は、「マンクス・ミュージアム」で聞ける。英語とは全く違っている。消えてしまった音というのは、なんだかせつない。マン島に行った際にはぜひとも聞いてみるとよろし。

バイクを待つ観客。誰かが流す爆音のラジオやスマホのアプリで情報を確認しながら観戦する

駐輪スペースはバイクでいっぱい。そういえば、マン島ではほとんどスクーターを見かけなかった

「マンクス・ミュージアム」。無料で見られるとは思えない充実したエキシビションで、マン島TTレースだけではなく、マン島自体の歴史や文化も知れる

あるフォトグラファーのことば
マン島TTレースのパドックをゆきさんにくっついて歩いているとき、マン島TTレースをずっと撮影しているというフォトグラファーに会った。
「MotoGPのジャーナリストをしています」とザ・日本人のあいさつよろしく名刺をわたして「どうもどうも」とお辞儀すると、彼も同じようににっこりと笑って「どうもどうも」とお辞儀してくれた。
「普段はMotoGPを取材して回っているんですが、今回初めてマン島に来たんです」
そう自己紹介すると彼は、なるほど、というふうにうなずいた。
そして、レーシングバイク、ライダーとメカニック、それを支える人たちにあふれたパドックをすいと見渡しながら、こう言った。少し背を正すような言い方で。
「マン島はね、人生なんだよ」
そうなんだ。そうなのか。
彼と別れて広いパドックを歩きながら、その言葉を反芻した。
その言葉に感銘を受けたというよりも、そういう言葉を言わせるマン島TTレースとはいったいなんだろう、ということが気になった。気になってしまった。たまらなく。

「マン島は人生なんだ」という言葉の真意、いつかわかるんだろうか

さて。ここからはもう少し、ざっくばらんにいきましょう。
マン島TTレースについてどう書こうかと、ずっと考えていた。
3日間で訪れたところはほかにもたくさんある……正確には、「ゆきさんに連れて行ってもらったところ」だけども。ほんと、完全におんぶにだっこ状態だった。ありがたや。
最終日はレースがない日だったので、タンデムでマン島TTのコースを1周してBallaugh Bridgeでジャンプもした……あれ、めちゃくちゃジャンプするんだね。ライダーはレーシングスピードでジャンプして走り抜けているんだから、ちょっと信じられない。
それからマン島の歴史がわかる遺跡を見たり、マン島のビールを飲んだり、名物料理を食べたり、ミュージアムをいくつか回ったりもした。
だけど、マン島やマン島TTレースについて、ほとんど全貌はつかめなかった。
あまりにも歴史が深くて長く、理解するには前提として必要な知識があるんだと感じた。
氷山の一角だけを見ているだけ。
まだまだ下に巨大なものが埋まっているのに、それを知る術も掘り起こす力もない。そんな感覚なんだよ。
だから、うまく言葉にまとまらないままだった。
でも、行ったからこそ「理解しきれない」ということがわかった。それを知れてよかったなあ。
そんなマン島TTレース体験でした。ちゃんちゃん。

Special thanks:小林ゆきさん

メインストリートの給油エリア。牛乳缶のようだとずっと思っていた。惜しくも給油する様子を見ることは叶わず。残念!

Braddan Bridge。ここに入るのは有料で、観戦席がある。目の前は公道。不思議な感じ

Murray’s Motorcycle Museumは個人所有のバイクを展示するミュージアム。「個人!?」と思うほど大量のバイクが所狭しと置かれている

マイケル・ダンロップなどの写真が飾られていたこの場所、なんと地元のスーパーマーケット。何気なく飾られていたことに驚き

マンクス・ミュージアムに展示されていた無限の電動レーサー、神電。走っているところを見たかった……!

マウンテンエリアから見た風景。マン島は風景がとても美しい場所ばかり

Okell’sというマン島のビール。飲みやすい!

島の西に位置するピールという港町で食べたパブめし。左がニシンの燻製(油がのっていてすごくおいしい!)。右はクイニーズというホタテをバターでいためたっぽいもの(間違いなくパンに合う)。そしてポテト。ポテトもおいしかった!

ピールで見た夕焼け。マン島は緯度が高いので、22時くらいになってやっと陽が沈む。向こうに見えるのはピール城

ビクトリー・カフェで会ったジョイ・ダンロップさん